台東区立金曽木小学校

2024/05/07 13:52 更新

大正時代の懐古談

大正時代の懐古談

根岸は市内であったが、日暮里は郡部だった。学校の周りには作家の村上浪六、画家の酒井芳一(ほういつ)、絵師の木村武山など、有名人がたくさん住んでいたが、特に経師屋(きょうじや=「びょうぶ」や「ふすま」などを作る職人)が多かった。
 石稲荷(いしいなり)ののぼり幡は、酒井画伯が描いたものといわれている。
 当時学校では月20銭の月謝をとっていて、毎月、区から集金に来ていた。
また保護者会の時には5銭集め、一年の始めに、筆や墨、紙など、学校で使用する物を配った。
 授業は今と同じように45分であったが、休み時間は15分とっていた。
 面白い事に、先生たちより小使いさんの方に身分の高い人がいた。
 大正七年に転入、十年六月に京橋区へ転出した。それは、自分の特技を生かすため、図画の専科を希望したからであった。当時は、裕福な区でなければ、専科の設置は許されなかったのである。
(大正7年から10年まで在職の、内藤秀因先生・談)

注(H14)
  内藤先生は水彩画の画家として大成され、故郷の山形県余目町に作品を収蔵した美術館があります。


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 現在の広い道はなく、裏側の細い道が通学路だった。学校の周りには高い建物がなかったので、木造校舎の2階から富士の秀峰を仰ぐことができた。
 日暮里から根岸にかけて、その名のごとく、静かに音もなく音無川(おとなしがわ)が流れていた。そこではよく魚が釣れた。御行の松(おぎょうのまつ)から三ノ輪まで往復すると、一尺くらいのナマズや二尺くらいの鯉がバケツいっぱいとれたものだ。
 写真で見ると旧校舎は貧弱だが、設備が良いので越境が多く、日暮里の商家の子どもや、三ノ輪、竜泉からも大勢来ていた。その頃、どこの学校でも下駄が盗まれたものだったが、金曽木では盗難がなかったので、ことさら評判がよかったのだろう。
 小学校から中学校へ進学するのは5人くらいで、その中から大学まで行った人は2人いたが、ほとんどは商店等の小僧さんになった。
 先生方は教室ではとても厳しかったが、夜、10人くらい自宅に呼んで勉強をみてくれた。
(大正8年卒の多賀憲治さん・談)

注(H14)
 多賀さんは既に鬼籍に入っておいでですが、お孫さんも本校の卒業生です。

         −−(創立70周年記念誌より抜粋)−−