学校ができたころ
明治維新新政府により近代国家の楚が築かれ、日清・日露戦争に大勝利し東洋の小国日本が、世界の強国と肩を並べたころ 、明治37年6月に私たちの学校は今の松葉公園のあるところにでき、10月に開校のお祝いをしたそうです。 |
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↑明治末年ころの菊屋橋 |
当時の子は、下駄をはき、草履を持っていってはきかえたそうです。服装は和服で袴、ノートは石板に石ひつを使って書いたということです。 |
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関東大震災のあったころ
↑路面電車 |
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↑停留所 |
↑テントの校舎で |
ところが、大正12年9月1日、関東地方は大きな地震に襲われ、大火災にも見舞われまちは消えてしまいました。隅田川は死人であふれたということです。 |
震災後、まちは大きく変わり、わたしたちの学校も昭和4年、鉄筋の校舎(今の前の校舎)になったということです。 |
↑完成した校舎 |
戦争があったころ
↑合羽橋道具街の通り |
震災から20年近くたち、まちがたちなおった頃、日本は外国と戦争をしました。昭和16年のことです。わたしたちは、戦争の様子を図書館で、映画を見たり、本で調べたりしました。まちのお年寄りにも聞いてみました。 |
松葉小学校のまわりも、全部焼けてしまったそうですが、学校は、焼けずに残ったそうです。 |
↓疎開先(秋保村) ↑疎開先での食事風景 |
平成の世をむかえるまで
太平洋戦争が終わってから、わたしたちのまちも日本の産業や経済の発展につれて大きく変わってきました。昭和30年から40年頃までは、区内の人口も今の2倍にもなりました。わたしたちの学校は千人を越すほどでした。 |
↑安藤正純先生胸像 |
これからのまちや区はどうなっていくのかな
わたしたちの平成の時代になって、区内は若い人や小中学生が減ってきています。そんな中で区内の再開発が進んできています。 |